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絶海の中、水平線の彼方から複雑に交叉する空気の渦が、弘法大師空海の乗る遣唐船に襲いかかってきました。船体を突き刺すような雨も加勢し、うねりが容赦なく平底をつついてきます。帆柱が狂ったように乱舞し始めると、船は暗鬱な空へと持ち上げられます。舳先が空中のある一点に達すると、V字谷を速攻で形成する波の谷間に向かい、船は急角度で落下していきます。激しい揺れは、船体が谷間を覆う海水に衝突したときが最高潮となり、海水という名の障壁は、非情な牙を剥き出したまま遣唐船を包み込もうとしています。

のちに弘法大師空海は「浪に随つて昇沈し、風に任せて南北す」と記しているように、延暦二十三年の第十六次遣唐船団は、気象に関する知識も観測もない当時の悲劇として、暴風雨に襲われ為す術もありませんでした。時に弘法大師空海三十一歳でした。 四隻の遣唐船はそれぞれ柁を折られ、四散し、沈没する船もありました。弘法大師空海の乗る第一船は最悪の事態だけは免れたものの、漂流状態となって迷走を始めました。 七月六日に出航した船は、暴風雨の苦行を経験したのち、八月十日に福州長渓県の赤岸鎮に漂着しました。そこは最澄の乗る第二船が着いた明州からは、約四千キロも南に離れた場所でした。しかも長渓県は唐でも片隅に位置する貧しい田舎だったのです。公式な使者ではなく、怪しい漂着者という扱いを受けるのも、ある意味無理のない状況でした。 しかしながら、遣唐使としての入国状況はともかく、このとき確かに弘法大師空海は入唐し、さらなる苦難の末、長安、そして青龍寺へと至り、恵果和上との歴史的な邂逅と続いたのです。 この入唐求法から千二百年。現代に生きるわたしたちは、弘法大師空海の足跡を簡単に辿ることが可能になりました。嵐の中をさまようこともなく、まして旅立ちに命を懸けることもなく、わずか数時間で西安、当時の長安へと踏み入れることが出来るのです。青龍寺ものちの廃仏毀釈で廃寺になってから、前世紀になって見事な復活を遂げました。 わたしは、歴史的に意義を持つ弘法大師空海入唐求法千二百年を直前に控えた年、気の合う仲間数人と長安青龍寺へ参拝に行きました。遺跡だった青龍寺が中国・日本の様々な協力のもと、当時の面影を垣間見せるほどに復興されていたのは驚きでした。というのも、大昔、大学時代の恩師による紀行話が脳裏に刻まれていたからです。恩師がここを訪れたときは、遺跡らしきものも何もなく、荒廃しただけの土地だったということでした。

青龍寺の復興は、四国四県と日本の真言宗の門徒衆により、中国仏教協会、西安市政府の協力の下、空海記念碑が建立されたことに始まります。さらに西安市の提唱により、東塔院遺跡に恵果・空海記念堂が唐代建築様式のまま再建されました。堂の中には弘法大師空海と恵果の説法像が並べられています。昭和五十八年九月のことでした。北宋の元祐元年以后、荒廃し、遂に廃墟となり地上から消えてしまった青龍寺が、弘法大師空海を偲ぶ人々の力で蘇ったのです。 わたしが参拝した日は、生憎小雨模様の天気で、肌を刺すほどの冷気が、荘厳な寺院を包んでいました。立派に再現された青龍寺の土塀の前に佇み、弘法大師空海の偉業について思いを巡らせると、時間が空間から解放され、千二百年まえの浪漫が眼の前に展開するようです。冷たい小雨も何だか、日常の憂いを静かに洗い流してくれているようです。 帰国後、青龍寺に参拝した話を各地でしていると、関心を示す方々があまりに多いことが分かりました。真言宗か否かは問わず、弘法大師そのものが民間伝承を含め、現代のわたしたちの生活に大きな影響を与えていることに、改めて気付かされた次第です。弘法大師伝説の残る地も真偽を別にして日本全国に分布し、しかもそれが絶えることなく、永遠の「現在」であるばかりでなく、「未来」であって、単なる「過去」の遺物ではないのです。 折りしもわたしは国際交流センターという法人の設立に携わり、国際的視野から日本の文化を見つめる機会に恵まれました。この事業の中で、日本と中国を結ぶ弘法大師空海が取り上げられたのは、まさに必然だったといえるでしょう。一緒に参拝した人たち、また参拝の話で関心を持って頂いた方々などを基点に、周囲では弘法大師空海入唐求法千二百年を記念する一大ムーブメントが起きました。情熱的なこの機運に導かれ、各方面の有志を中心に本会「弘法倶楽部」が設立されることとなった次第です。会の運営を国際交流センターが引き受けることとし、取締役であるわたしが、僭越ながら会長を勤めさせて頂くこととなりました。 本会は広く一般から会員を募り、情報の発信・交換をしていきます。会報誌では、皆様からの情報をもとに、様々なことを報告していく所存です。弘法大師についてご理解される皆様の協力あっての倶楽部です。よろしくお願い申し上げます。
弘法倶楽部初代会長 中川一明
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